人間と物理量、自然と物理量の記述について
(以下の文は試験とあまり関係ないので飛ばしてもかまいません)
人間の感覚と物理量の関係を述べた記述を見て、人間はそんなに単純なものじゃない!!と感じてその理論や更には環境工学自体に嫌悪感や拒否感を感じる方もいらっしゃると思います。例えば人間の感覚量は、物理量の対数に比例する:ウェーバー・フェフナーの法則等にです。その考え方は全く正しいです。実際に人間にはその日の体調や体質、実験環境、その人の感じ方、物の言い方等で感じ方には差がかなりあり、単純に対数に比例する等ということは実はかなり怪しい?です。実生活においても集中しているときとボーっとしている時、スポーツをしているときと座って食事をしている時では、感覚の使い方が全く違いますよね。人間はもっと精妙な感覚をもって生きていると思います。ではなぜ、そのような法則が生まれ、また広く伝えられているかというと、それを知るには科学史や工学の歴史を知る必要があります。ここからは独断と偏見なので話半分程度、そういった考え方もあるなあ、位に捉えて欲しいのですが、まず科学には、この世界の事象は、人間の持つ理性によって理解できるものだという前提があります。そして物体や環境の性質には、その性質をよく表し、測定できるようになる特定の条件があると考えられています。だから、不確定な要素を取り除いた、実験しやすい環境や条件を選び、この世界の性質がよく表れてくれるように準備を整えて、実験・観察・測定をして同じく理性をもつ人間に分かるように内容をまとめるわけです。この中から、様々な理論が発見されます。(逆に理論を仮定して、それを確かめる実験をする、なんてこともします)更に、これを工学的に、実際の生活の便利のために使用する場合は、現実の不確定な要素を含んだ環境で実測し、データを集めます。その中で、仮定と実験を繰り返し、改良しながら、現実に使える理論を構築してきました。計算式の中に、よく○○定数という数値が表れますね、これは物性によってそれぞれの物体に与えられた特性値である、という見方も出来ますが、実験を繰り返して、それぞれの物体について計算式が出来ても、物体によって式の値がばらばらなんです。これを統一した式にしたい場合に、同じ式になるように(ならない部分は○○定数;ガラスの時は1、鉄の時は2、木の時は8のように)定数を与えているんです。そうすると、実際の現場で使う際に、標準的にこの値と式を使って計算すれば、大体当たっていると考えているわけです。(たくさんの実験を繰り返して作った計算方法なので、少なくとも大外れはしないはずです)そういった流れの中の、理論や法則なんです。なので、ウェーバー・フェフナーの法則も、現代の生理学の研究に照らせば実はかなり間違っているかもしれません。こうして科学や科学技術は過去にまとめられた内容に訂正や改良を加えて進歩していくわけですが、学科試験で過去の理論や法則を問われるのは、「そういった環境工学に中のある理論や法則をあなたは知っていますか?」と問われているのかもしれませんね。(ただそれを詳しく、たくさん知ろうとすると試験勉強の時間を圧迫するので、効率的な試験勉強という観点からは全く不向きですが)
【余分ですがもう少し続きます】
また、自然と物理量の関係を述べた記述を見て、自然はそんなに単純なものじゃない!!と感じていらっしゃる方もいるのではないでしょうか。これも全く正しい見方だと思います。繰り返しになりますが、やはりこれも、自然は人間の理性によって理解できるという前提、自然の性質が人間の前によく表れるには特定の条件があるという考え、そして仮設と実験の繰り返しによって改良と訂正が繰り返されてきました。例えば問題文に完全に均質な○○とする、といった但し書き(ただしがき)がありますね。これも、時間を経れば、もしくは時間の経過を無視すれば自然は理想的な完全に均質な状態を表すのだ、という人間の考えが表れていると言えます。また、計算上も理想的な状態に限定すると簡便に計算できる場合が多いのです。(試験で計算問題に微分方程式が出たら大変に感じませんか?)なぜ数式が自然(の性質の一部)をよく表す(とされているのか)は、なかなか不思議で面白い問題ですね。そういったことを追求していくと、近代になって表れた対数や微分・積分によって爆発的に自然をよく表し、またその性質を分析したり予想したりできるようになった歴史が登場するのですが、そちらは科学の歴史や科学の思想史の話になっていくので、興味のある方は試験の息抜きに調べてみるのも良いと思います。試験に全く関係のない話でしたね^^
長々とした文章を読んでいただき、ありがとうございました^^
人間の感覚と物理量の関係を述べた記述を見て、人間はそんなに単純なものじゃない!!と感じてその理論や更には環境工学自体に嫌悪感や拒否感を感じる方もいらっしゃると思います。例えば人間の感覚量は、物理量の対数に比例する:ウェーバー・フェフナーの法則等にです。その考え方は全く正しいです。実際に人間にはその日の体調や体質、実験環境、その人の感じ方、物の言い方等で感じ方には差がかなりあり、単純に対数に比例する等ということは実はかなり怪しい?です。実生活においても集中しているときとボーっとしている時、スポーツをしているときと座って食事をしている時では、感覚の使い方が全く違いますよね。人間はもっと精妙な感覚をもって生きていると思います。ではなぜ、そのような法則が生まれ、また広く伝えられているかというと、それを知るには科学史や工学の歴史を知る必要があります。ここからは独断と偏見なので話半分程度、そういった考え方もあるなあ、位に捉えて欲しいのですが、まず科学には、この世界の事象は、人間の持つ理性によって理解できるものだという前提があります。そして物体や環境の性質には、その性質をよく表し、測定できるようになる特定の条件があると考えられています。だから、不確定な要素を取り除いた、実験しやすい環境や条件を選び、この世界の性質がよく表れてくれるように準備を整えて、実験・観察・測定をして同じく理性をもつ人間に分かるように内容をまとめるわけです。この中から、様々な理論が発見されます。(逆に理論を仮定して、それを確かめる実験をする、なんてこともします)更に、これを工学的に、実際の生活の便利のために使用する場合は、現実の不確定な要素を含んだ環境で実測し、データを集めます。その中で、仮定と実験を繰り返し、改良しながら、現実に使える理論を構築してきました。計算式の中に、よく○○定数という数値が表れますね、これは物性によってそれぞれの物体に与えられた特性値である、という見方も出来ますが、実験を繰り返して、それぞれの物体について計算式が出来ても、物体によって式の値がばらばらなんです。これを統一した式にしたい場合に、同じ式になるように(ならない部分は○○定数;ガラスの時は1、鉄の時は2、木の時は8のように)定数を与えているんです。そうすると、実際の現場で使う際に、標準的にこの値と式を使って計算すれば、大体当たっていると考えているわけです。(たくさんの実験を繰り返して作った計算方法なので、少なくとも大外れはしないはずです)そういった流れの中の、理論や法則なんです。なので、ウェーバー・フェフナーの法則も、現代の生理学の研究に照らせば実はかなり間違っているかもしれません。こうして科学や科学技術は過去にまとめられた内容に訂正や改良を加えて進歩していくわけですが、学科試験で過去の理論や法則を問われるのは、「そういった環境工学に中のある理論や法則をあなたは知っていますか?」と問われているのかもしれませんね。(ただそれを詳しく、たくさん知ろうとすると試験勉強の時間を圧迫するので、効率的な試験勉強という観点からは全く不向きですが)
【余分ですがもう少し続きます】
また、自然と物理量の関係を述べた記述を見て、自然はそんなに単純なものじゃない!!と感じていらっしゃる方もいるのではないでしょうか。これも全く正しい見方だと思います。繰り返しになりますが、やはりこれも、自然は人間の理性によって理解できるという前提、自然の性質が人間の前によく表れるには特定の条件があるという考え、そして仮設と実験の繰り返しによって改良と訂正が繰り返されてきました。例えば問題文に完全に均質な○○とする、といった但し書き(ただしがき)がありますね。これも、時間を経れば、もしくは時間の経過を無視すれば自然は理想的な完全に均質な状態を表すのだ、という人間の考えが表れていると言えます。また、計算上も理想的な状態に限定すると簡便に計算できる場合が多いのです。(試験で計算問題に微分方程式が出たら大変に感じませんか?)なぜ数式が自然(の性質の一部)をよく表す(とされているのか)は、なかなか不思議で面白い問題ですね。そういったことを追求していくと、近代になって表れた対数や微分・積分によって爆発的に自然をよく表し、またその性質を分析したり予想したりできるようになった歴史が登場するのですが、そちらは科学の歴史や科学の思想史の話になっていくので、興味のある方は試験の息抜きに調べてみるのも良いと思います。試験に全く関係のない話でしたね^^
長々とした文章を読んでいただき、ありがとうございました^^
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